10/24は会員が1名増えて、7名での稽古でした。
9月と10月はそれぞれ新規会員が入会したこともあり、来週は5級の審査を受ける人が居ることもあり、今回の稽古は座礼や構え方などの基本動作と、基本技の解説を中心に稽古しました。
たまたま昨日は、他の道場で長く修練している友人と久しぶりに会って話をしたのですが、同じ合気会でありながらも実は私たちとは合気道の解釈が異なり、したがって技の捉え方自体が大きく異なります。試合がない武道なのでこういう剥離がどんどん広がるのだろうと思うのですが、合気道では戦うことが目的ではない、つまり取りも受けも力を入れずひたすら柔らかく、受けが取りの望み通りに自ら動いて崩れ、取りの理想の形で終わることを、友人の道場では探求しているようです。それを植芝盛平開祖の言う「愛」と解釈しているものと考えられます。
私たちの知る大東流合気柔術の師範クラスの方々は、このような合気道を認めていないのですが、私たちとしては他道場は他道場、私たちの道場は私たちの理解で合気道を指導していけばよいと考えています。実際に他者から危害を加えられたり襲われたりすることがなければ、理想の形に受けが自ら動いて、それが「愛」だと言っても問題はありませんし、健康づくりとしてもとても良いものだと思います。
ただ、私たちは大東流も修練してきましたし、現代合気道のバックグラウンドから探求して合気道と向き合っていますので、稽古をしながら「もしもここが戦の場であったなら」とか「もしも甲冑を着ていたとしたら」という解釈が必ず入ります。その意味で、殺そうとして襲ってくる相手が自分に対して「愛」を持っているとは思えないし、自分もその相手に「愛」を持てるとは思えません。実社会で通り魔やキチガイ染みた犯罪者に襲いかかられる時に「愛」などは介在しません。植芝開祖の言う「愛」とは、そのような現実に即したものではなく、もっと大きな存在を指していると私たちは考えているのです。
ということで、私たちは受けには「力を込めて打て」「相手を攻めるつもりで手首を握れ」「本気で肚に向かって突け」という指導をしています。受けに気が入らないと技は効かないし、最初から責める気もない受けに対しては、技を繰り出して鎮める必要などないからです。
この稽古方法は、大東流三大技法における合気柔術に当てはまりそうです。そして、友人の道場でやっているひたすら柔らかい技の稽古は、最も高度とされる合気之術を追い求めて形だけ真似ているものと考えられます。友人も「理想とする形をやっている」というようなことを言っていましたので、そういうやり方や解釈もあるということは、自分たちの道場ではやらないまでも納得しています。
基本動作と基本技の復習
- 座礼
- 構え方
- 正面打ちの打ち込み方
- 正面打ち第一教
- 片手取り四方投げ
- 座技呼吸法